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NIJIの夢

NIJIの夢

011~020


NO,011 参議篁

011.参議篁

わたの原 八十島かけて 漕ぎ出でぬと
人には告げよ 海人の釣舟

大海原に、数多くの島々を目指して漕ぎ出して行ったと、都にいる親しい人に伝えておくれ、漁師の釣り舟よ。

この歌は『古今集』に「隠岐国に流されけるときに、船に乗りて出でたつとて、京なる人のもとに遣はしける」と詞書として収められています。
隠岐は日本海に浮かぶ島で、佐渡とともに流罪となった人が送られる島でした。
沢山の島々を目指しては後にし、隠岐へ向かう船旅は、当時としては果てしないものに思われたに違いありません。
船出のときに作者が感じた不安感、そして、生きて再び都に戻れれる事はないかも知れないという絶望感は、どんなに深いものだったでしょう。
都に残してきた親しい人(おそらく妻)への湧かれがたい思いを誰かに伝えてもらいたいと思っても、目の前にはただ海が広がっているばかりです。
「海人の釣舟」を人に見立てて訴えかけずにはいられなかったという状況が、作者の孤独感を一層深く伝えています。
状況は異なれ、人生の中で孤独を感じ絶望的になる事があるのは私だけでしょうか。


備考
参議篁は、承和元年(834年)、遺唐副使に任命されました。
しかし、大使の藤原常嗣(つねつぐ)が、自分の乗る船が破損していたために、篁の船と交換させようとした事を不満として乗船を拒否し、遺唐使を風刺する詩を作りました。
この事が、嵯峨上皇の怒りに触れ、隠岐国に流される事になったのです。
余談ですが、「今昔物語集」には、篁が閻魔大王と交流があり、昼間は朝廷に仕えて夜は地獄へ通ったという不思議な話が残されています。

【参議篁】さんぎたかむら
小野篁のこと。(802‐852)
平安前期の学者、漢詩人で歌人。
「令義解」の編纂に参与。
後に参議となる。(従三位)
その剛直な性格は世にいれられず、野相公(やしょうこう)と言われた。
「古今和歌集」以下の勅撰集および「経国集」などに作品がみえる。

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NO,012 僧正遍昭

012.僧正遍昭

天つ風 雲の通ひ路 吹きとぢよ
をとめの姿 しばしとどめむ

空を吹く風よ、天女が天と地を行き来する雲の中の通路を吹き閉じておくれ。
この美しい天女たちの姿を、もうしばらく下界にとどめておきたいと思うから。


「古今集」の詞書には、「五節の舞姫を見てよめる」と記されています。
作者が舞姫の美しさに感動して、即興で詠んだとされています。
「五節の舞姫」とは、陰暦11月に行われた「新嘗の祭り」の翌日に行われる「豊明節会」の宴で行われました。
この宴で舞をまう、4~5人の乙女を舞姫と言います。
舞姫には貴族の家の、特に美しい未婚の女性が選ばれます。
舞姫の美しさと伝説(※備考参照)の幻想的なイメージが重なり、あでやかな歌となっています。
平安時代の宮中の華やかな宴の様子が伝わってきます。


備考
この五節の舞姫は、天武天皇が吉野に行幸した際、日暮れに琴を弾いていたところ、天女が空から降りてきて、天皇の琴に合わせて舞をまったという伝説に由来しています。
僧正遍昭は、舞姫たちを、この伝説に出てくる天女に見立てているのです。
舞い終わると天女たちは天上へ帰ってしまいます。
なので、「天女が天上へ帰るときに通る雲の中の道を吹き閉じて欲しい」と言っています。
吹くことのないであろう「空の風」を「擬人化」しているところも、この歌の面白さですね。

【僧正遍昭】そうじょうへんじょう
本名は良岑宗定。(816-890)
六歌仙の一人。
桓武天皇の孫で素性法師の父。
嘉祥3年(859年)、仁明天皇の崩御と共に出家し、仁和元年(885年)、僧正となる。
この歌は、彼が出家する前の作品です。

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NO,013 陽成院

013.陽成院

筑波嶺の 峰より落つる みなの川
恋ぞつもりて 淵となりぬる

筑波山の峰から流れ落ちる水が、積もり積もって深い淵となるように、私の貴女への恋心も、積もり積もって今では淵のように深くなってしまった。

「後撰集」の詞書には「釣殿のみこに遣はしける」と記されています。
「釣殿のみこ」とは、光孝天皇の皇女で、後に陽成院の後宮に入りました。
これは、内親王のときの彼女に陽成院が贈った恋の歌です。
日ごとにつのりゆく内親王への切なさを、筑波山の峰からしたたり落ちる水滴が、次第に積もってみなの川の流れとなり、ついには深い淵となる様子に結びつけて見事に表現しています。
勢いよく一息に詠み下した歌の調子からは、激しさとともに院の純粋な恋心が伝わってくるようです。
一度で良いから、こんな激しいラブレターを貰ってみたいものだ。


備考
みなの川は、筑波山から流れ出ている川で、筑波山の二つの峰、男体山と女体山にちなみ「男女川」とも書きます。
京の都に住む陽成院は、筑波山もみなの川も実際には見たことはないと思われます。
しかし、恋を歌うに相応しい地名を詠むことで、自身の恋心の深さを示したかったのでしょう。

【陽成院】ようぜいいん
陽成天皇のこと。(868‐949)
清和天皇の第1皇子。
平安前期の天皇で、9歳で第57代の天皇として即位。
在位は876~884年の8年間。
乱行が多く、藤原基経に退位させられ、藤原氏の権力強大化の一因をつくった。

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NO,014 河原左大臣

014.河原左大臣

陸奥の しのぶもぢずり 誰ゆゑに
乱れそめにし われならなくに

陸奥に産するしのぶずりの乱れ模様のように私の心は乱されているが、これは貴女以外の誰のせいでもない。
貴女一人のために乱れ始めたのだよ。


恋人から心変わりを疑われた作者が、自分の愛情が変わっていないことを訴えた歌です。
撰者の定家もこの歌を気に入っていたようで、これを本歌取りして次のような歌を詠んでいます。
「陸奥の信夫もぢずり乱れつつ色にと恋ひむ思ひ染めきて」


備考
【しのぶもぢずり】は、本来は忍ぶ草で摺った布の事を言いました。
しかし、平安時代の中ごろには、現在の福島県にある信夫郡で産する布の事を指すようになりました。
遠い陸奥の特産品である【しのぶもぢずり】は、都の人々の目にはとても新鮮に映ったことでしょう。
また、その乱れ模様は恋に乱れる気持ちを連想させるのに相応しいものだったようです。

【河原左大臣】かわらのさだいじん
源融(みなもとのとおる)のこと。(822-895)
嵯峨天皇の皇子。
従一位左大臣に就任。
京の東六条に河原院という豪華な邸宅を建てて住んだため、河原左大臣と呼ばれた。

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NO,015 光孝天皇

015.光孝天皇

君がため 春の野に出でて 若菜つむ
わが衣手に 雪はふりつつ

貴女にあげようと思って、春の野原に出て若葉を摘んでいる私の着物の袖に、雪がしきりに降りかかることであるよ。

この若菜つみは、醍醐天皇の延喜年間に、正月7日【子(ね)の日】に、天皇に若菜を供する行事となりました。
醍醐天皇は光孝天皇より少し後の人ですが、この歌も子の日に詠まれたものかも知れません。
「私の着物の袖に雪が降りかかる」としていますが、親王という高貴な身分から察するに、自ら野原に出て若菜を摘んだとは思えない。
多分、春の淡雪が降りしきる日に、摘まれたばかりの若菜を前にして、愛する人の1年の健康を祈りながら、この歌を詠んだと考えられます。
光孝天皇の優しい人柄が伝わってくるような歌ですね。


備考
現在でも、正月7日に七草粥を食べる風習が残っています。
初春の若菜摘みはかなり古くから行われていたようです。
せり・なずな・はこべら・ごぎょう・ほとけのざ・すずな(カブ)・すずしろ(大根)などの早春に芽を出す草を食べると、その年の邪気を払うと信じられていたためです。

【光孝天皇】こうこうてんのう
平安前期の天皇。(830‐887)
在位884~887年。
仁明(にんみょう)天皇の第3皇子。
太政大臣藤原基経が陽成(ようぜい)天皇を廃して擁立させた。
在位中、基経を関白に任じて、中央・地方の綱紀粛正を行った。
年号が「仁和」であったため、「仁和の帝」などと呼ばれていた。
学問に優れ、温厚な性格であったと伝えられている。

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NO,016 中納言行平

016.中納言行平

立ち別れ いなばの山の 峰に生ふる
まつとし聞かば 今帰り来む

私はあなたと別れて因幡の国へ行きますが、その国の稲羽の山の峰に生えている松。
その「まつ」という言葉のように、あなたが私を「待つ」と聞いたならば、私はすぐにでも帰って来ましょう。


作者の行平は、斉衡2年(855年)、38歳のときに因幡の守の任ぜられて都を離れることになりました。
この歌は、任国へ赴く際に、送別の宴で詠んだ歌とされています。
または、見送りに来てくれた人々への別れの挨拶として詠んだともされています。
「松」という言葉に「待つ」という意味を込めています。
わずか31文字の中に、これだけの意味を込めるのですから、歌人とは凄いものです。
遠い任地へと旅立ち、4年の任期を終えるまで都に戻れない作者の心細さを象徴していて、しみじみとした哀愁を感じさせています。


備考
文徳天皇のとき、ある事情から須磨に流された事がありました。
「源氏物語」の須磨の巻は、そのときの行平をモデルにして書かれたと言われています。

【中納言行平】ちゅうなごんゆきひら
在原行平のこと。(818‐893)
平安初期の歌人。
平城天皇の皇子阿保親王の第2子。
業平の異母兄で在原の姓を賜る。
諸国の国守を歴任し、後に参議、中納言となる。
在原氏の子弟教育のため奨学院を建てた。
事に触れて一時須磨に流され、謡曲「松風」などの題材となる。

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NO,017 在原業平朝臣

017.在原業平朝臣

ちはやぶる 神代も聞かず 龍田川
からくれなゐに 水くくるとは

不思議なことが多かったという神代にも聞いたがことがない。
龍田川に紅葉が舞い散って、流れる水を鮮やかな紅色にくくり染めにするなどということは。


この歌は「古今集」の詞書に「二条后の東宮の御息所と申しける時に、御屏風に龍田川に紅葉流れたる形をかけりけるを題にてよめる」と記されています。
「二条后」は清和天皇の皇后で、藤原長良の次女、関白基経の妹にあたる高子(たかいこ)のことです。
川面を色鮮やかな紅葉が流れる様子をくくり染めに例えた趣向が新鮮で、美男の誉れ高い作者にふさわしい華やかな歌となっています。


備考
これは、高子が皇太子のときに、彼女の調度品の屏風に描かれた龍田川の絵を見て詠んだ歌で、こうした類の歌を「屏風歌」と言います。
業平は自由奔放な性格で恋多き男であり、入内前の二条后(藤原高子)とも恋愛関係にありました。
彼をモデルとして書かれたとされる「伊勢物語」には、高子や伊勢の斎宮との悲恋の物語が語られています。
紀貫之は、「古今集」の仮名序で、業平のことを「心あまりてことばたらず、いはばしぼめる花の色なくて、匂ひ残れるがごとし」と、辛口の評価をしています。

【在原業平朝臣】ありわらのなりひらあそん
在原業平のこと。(825‐880)
平安初期の歌人。
平城天皇の皇子阿保親王の第5子。
在原の姓を賜り、在五中将の名で知られる。
藤原氏と相いれず政治的には不遇で、自由な恋愛生活が伝説化されている。
哀調を帯びた歌風で、「古今和歌集」以下の勅撰集に入集。
六歌仙の1人で三十六歌仙の1人でもある。
「伊勢物語」の主人公に擬されている。
家集に「業平集」

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NO,018 藤原敏行朝臣

018.藤原敏行朝臣

住の江の 岸に寄る波 よるさへや
夢の通ひ路 人目よくらむ

住の江の岸に寄る波の、その「よる」という言葉ではないが、昼間は勿論のこと、どうして夜までも、夢の中で恋人のところへ通う道で、あなたは人目を避けるのであろうか。

この時代の結婚や恋愛は、男性が女性のもとへ通うという形でした。
その観点から、この歌は作者が女性の立場になって詠んだものと考えられます。
平安時代の人々にとって、夢は重要なものであり、夢の内容で吉凶を占うことも盛んに行われていました。
また、夢の中に恋しい人が現れるという事は、相手が自分のことを想ってくれているという証拠であると信じられていました。
ですから、夢の中でさえも人目を避けて自分のもとへ通ってきてくれないという表現には、相手の自分に対する愛情が薄らいでいるのではないか、と不安に思う気持ちも込められていると考えられます。


備考
夢という幻想的な素材と、序詞の岸辺に打ち寄せては返す波のイメージによって、ゆらゆらと頼りなげな恋の姿が見事に描かれています。
なお、「人目よくらむ」の「よくらむ」の主語を、「私が」とする説もあります。
この場合は、夢の中でも人目を避ける自分の心をいぶかしんだ歌になってしまいます。
余談ですが、彼の作品の、「秋来ぬと 目にはさやかに 見えねども 風の音にぞ 驚かれぬる」という歌は、あまりにも有名です。

【藤原敏行朝臣】ふじわらのとしゆきあそん
藤原敏行のこと。(?‐907)
平安前期の歌人。
富士麻呂の子。
宇多天皇の信任を得て、右兵衛督(うひょうえのかみ)に就任。
三十六歌仙の1人。
能書家としても優れていた。
歌は「古今和歌集」などの勅撰集に入集。
家集に「敏行朝臣集」

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NO,019 伊勢

019.伊勢

難波潟 短き蘆の ふしの間も
逢はでこのよを 過ぐしてよとや

難波潟に生えている蘆の、短い節と節の間のような、ほんの短い間でさえも、こんなに恋い慕っている貴方に逢うことなしに、この世を過ごせと言われるのですか。

「新古今集」では「題知らず」となっています。
この歌に関し、伊勢の歌集には「秋ごろ、うたての人の物思いひける」という詞書があるので、つれない恋人への恨みを詠んだ歌であると分かります。
彼女は宇多天皇の中宮に仕えた女房で、天皇を始め、多くの貴公子たちから愛されました。
この情熱的な恋の歌を、その中の誰に贈ったものなのか定かではありません。
宮中を舞台に繰り広げられた、美しく才能のある女性の華やかな恋愛絵巻を想像してみては如何ですか。


備考
伊勢はとても美人であったと言われ、藤原仲平や藤原時平に愛された後、宇多天皇の寵愛を受けて皇子を生みました。
その後も、宇多天皇の皇子敦慶親王に愛されて中務(なかつかさ)を生んでいます。
平安時代は恋愛にかなり開放的だったようです。
羨ましい時代でした。

【伊勢】いせ
平安前期の女流歌人。(生没年共に不明)
三十六歌仙の1人。
藤原継陰の娘で、宇多天皇の中宮温子に使え、父の官命から「伊勢」と呼ばれた。
中務(なかつかさ)の母。
人生への愛着や人間のさびしさを主題とした古今調の歌が多い。
家集に「伊勢集」

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NO,020 元良親王

020.元良親王

わびぬれば 今はた同じ 難波なる
みをつくしても 逢はむとぞ思ふ

二人の仲が世間に知れ渡って、このように苦しんでいるのであるから、今はもう身を捨てたのと同じこと。
それなら、いっそ難波にある澪標という名のように、この身を尽くしても(身を滅ぼしても)、貴女に逢おうと思っている。


平安時代は比較的自由な男女関係が認められていました。
それでも、天皇の寵姫との恋は許されざるものでした。
関係が露見してしまったことに悩み苦しみながらも、難波の海に立つ澪標に自分をなぞらえて、この身を滅ぼしてもいいから貴女に逢いたいと、強い調子で詠んでおり、親王の激しい情熱が伝わってきます。


備考
元良親王は、当時から風流な色好みの貴公子としてその名を知られていました。
この歌は、親王の様々な恋にまつわる逸話を背景として、平安時代の人々の間でかなりの評判となりました。
「源氏物語」の「澪標の巻」でも引用されています。
かなりのプレイボーイで沢山の女性と関係があったと伝えられる。

【元良親王】もとよししんのう
陽成天皇の第1子。(890-943)
三品兵部卿となり、「大和物語」に「故兵部卿宮」と呼ばれ登場している。
「源氏物語」の光源氏のモデルとなった1人であるとも言われている。
和歌に優れていた。
歌集の「元良親王集」には多くの女性との贈答歌が残されている。

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021~030に進みます。


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